職業としての学問

mardi 30 novembre

金曜のお昼に追加履修をし、土曜に図書館から参考文献を借り、月曜2時に起きるも寒すぎ!やっぱり朝に終わらず、月曜のお昼に追加のレポート用紙を買い、日付が変わる前に練馬の郵便局で提出。いつの間にこんなぎりぎり体質になってしまったのだろうか・・・

今回最後にやっていたのはウェーバー。でも作曲家の方でなく、マックス・ウェーバーね。一番薄い『職業としての学問』を選びました。最近現代訳が出ていて、これが結構ヒット。学者以外の人がこういう風に訳すのは意味あることだと思う。
http://www.amazon.co.jp/現代訳-職業としての学問-マックス・ウェーバー/dp/4833419157/

ウェーバーがトルストイを取り上げているのもうれしい。アンテナが張っているときはこうやってリンクしていくもの。トルストイは学問に意味はない、私たちにとって大切な問題、何をすべきか、何のために生きるのか、ということに学問は答えない、と言う。ウェーバーはそれを認めていて、学問は事実を示すもので(事実をして語らしめる、という箇所は考え直さないといけないけど)価値を説くものじゃない、でも明晰さを与えることで人が自分で考え判断し、それに責任をもつようにすることはできると言う。意味を与えることはできなくても、意味を問うことはできる。だから、日々の仕事に向き合って、外的な指標でなく「自分はこの価値で生きる」と自分自身で見出せと言う。すぐに回答を求めるな。価値判断は自分でしろ。かっこいいじゃない、ウェーバー。

前回の近代日本文学はオーソドックスに夏目漱石『こころ』にしたのだけれど、その時に読んだ『悩む力』の姜尚中がこの現代訳の後半で対談しているのだ。夏目漱石とウェーバーなんだから、そりゃリンクするはず。
http://www.amazon.co.jp/悩む力-集英社新書-444C-姜-尚中/dp/4087204448/


「自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、其犠牲としてみんな此淋しみを味わわなくてはならないでしょう」(『こころ』先生の言葉)

「人が働くという行為のいちばん底にあるのは、「社会の中で、自分の存在を認められる」ということである。人はなぜ働かなければならないのかという問いの答えは、他者からのアテンション(ねぎらいのまなざしをむけること)、そして他者へのアテンションだと言いたいと思う。」

「「人は一人では生きられない」とよく言う。それは経済的、物理的に支えあわねばならないという意味だけでなく、哲学な意味でもやはりそうなのだ。自我を保持していくためには、やはり他者とのつながりが必要なのだ。相互承認の中でしか、人は生きられない。相互承認によってしか、自我はありえないのだ。」

そういえば姜尚中って日曜美術館の司会をしててびっくり。多才な人なのね。

夜スク音楽史で、ヴェルディが音楽家のために立てた老人ホームCasa Verdiのドキュメンタリーを観たけど、
http://www.nhk.or.jp/special/libraly/01/l0007/l0721s.html

やっぱり皆が音楽という同じ価値観をもとにして、お互いを理解し認めあって暮らしていることが晩年の日々にあっても生き生きとしていることにつながっていると思うのだ。認められること、そして認めることって大切。

音楽史の2回目レポ、今度のお題は「リゴレット」「アイーダ」「オテッロ」のどれかを通して観て書くんだって。楽しみ!それにしても、ナブッコの「行けわが思いよ、金色の翼に乗って」は、♪むむむ~♪でもいいけど歌えたら楽しいだろうなぁ。アコでも弾いてみよう。
http://kcpo.jp/info/4thfc/Nabucco3.html#lib

★Va pensiero ('Nabucco', G. Verdi)


http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1631503014&owner_id=831795
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by nabocha | 2010-11-30 23:37 | 慶應通信
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